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アウンサン

2月1日早朝、ミャンマー与党・国民民主連盟(NLD)を率いるアウンサンスーチー国家顧問やウィンミン大統領らが国軍によって拘束され、一時民主化が進んだと思われたミャンマーは再び軍政のもとに引き戻された。
昨年11月8日の総選挙でアウンサンスーチー率いるNLDは圧勝したが、その時からすでに今日の日が来ることは予想できた。ミャンマーの近代史は、英国植民地からの独立運動とそれを助けた日本陸軍との葛藤、戦後、国軍と民主化運動との間で繰り返された主導権争いの歴史だ。
ところでアウンサンスーチーの実父でビルマ建国の父とも言われるアウンサン将軍が、「面田紋次」という日本名を持っていたことはあまり知られていない。
1915年生まれのアウンサン将軍はラングーン大学在学中に全ビルマ学生連合のリーダーとなり、1938年には独立運動組織「われらビルマ人連盟」を率いて反英運動を展開している。
1940年、日中戦争打開に向けて援蒋ルートの遮断を企図した鈴木敬司大佐を機関長とする南機関の保護の下、英国の迫害を逃れ面田紋次という日本名で箱根の大涌谷に滞在していた。太平洋戦争開戦後、アウンサン将軍と同志たちはバンコクでビルマ独立義勇軍を創設し、日本陸軍の訓練を受けて1942年3月のラングーン陥落に貢献、7月にはビルマから英国軍を駆逐することに成功した。
1943年3月、アウンサン将軍は正式に日本に招かれて旭日章を受章、同年8月1日にビルマ国が誕生すると国防相となり、現在のミャンマー国軍につながるビルマ国民軍を立ち上げている。
しかしその後日本のビルマ国民軍への待遇から懐疑的になり、インパール作戦の失敗などで日本の敗色濃厚とみるや英国に寝返ることを躊躇わなかった。
1945年3月27日に今度は連合国と呼応した抗日運動を開始して、5月にはラングーンを恢復、6月15日には対日勝利を宣言した。ところが英国はビルマの完全独立を許さず、戦後再びビルマを英国の植民地として併合してしまったのだ。
英国にとって不都合であったアウンサン将軍は、翌1948年1月4日のビルマ独立を見ることなく1947年7月19日に6人の閣僚とともに暗殺されてしまう。
今回の国軍による権力の掌握もまた、愛国ビルマ軍に通ずるミャンマー国軍と西側諸国の後押しでノーベル平和賞を受賞した娘スーチーの民主化運動の対立である。そこにイスラム系ロヒンギャと仏教系ミャンマー人の抗争が複雑に関与している。
親子二代にわたって英国と日本に翻弄された姿は悲しい。日本外務省は今回のミャンマー国軍の力による権力掌握にどのようなメッセージを出すのであろうか?
面田紋次は草葉の陰から見届けようとしているに違いない。

| 21.01.29

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